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最近は、私が考えること、言うこと、することが誰かの役に立ちますようにと願いながらかいています。

見えるとこまで行って見る

前にも似たようなことを書いたのだけれど、

 

だいぶ前に読んだヨーガスートラの解説本に、「生徒の準備ができたとき先生が現れる」みたいなことが書いてあった。

 

それを読んだとき、生徒としての心構えができたある日、突然自分の先生とバッタリ出会うのかな…。なんて思ってた。

 

 

ところで、

ヴェーダンタの教えは生徒の質問から始まる対話形式なんだそう。理由はなんとなくしか覚えてないから書かないけど、だからギーターも対話形式だ。

 

そのことを教わって私の意識は大きく変わった。

 

私の中で「先生と生徒の関係」というのは、これまで受けた教育がベースになっていて、先生が一方的に何かを教え、生徒は興味があってもなくてもそれを覚えてテストを受ける、というスタイルだった。

 

学校教育では、それをしていればテストでいい点が取れ、目的が達成できるので問題ないのだけれど、

 

大人になってもまだいろいろ習っていて、更に教えてもいる私は、そのスタイルに違和感があった。

受け身で教わっても上手くならないんだよねー、なんて。大人は興味がないことには時間とお金を割かないし、とか。

 

それに、解説書の「生徒の準備ができて」って、どういうことだろう…。といつも思っていた。

 

 

それで最近、こうかな、と思ったのは、

「ある日突然」先生とは出会わない。

先生はやっぱりずっと目の前にいた先生だった。

「私が」先生を理解したいと思って初めて、私は先生の生徒になれたということ。

 

他人を理解するとき、私たちはいつも自分の知っている範囲で理解しようとしてわかったつもりになっている。

先生を理解するときも同じだ。

 

 

でも特に、知らないことを教わるとき、自分が今知っている範囲で理解しようとしていては、全然何にもはじまらない。

 

生徒は、できるだけ先生の世界に近づき、できるだけ先生に近い観点で見ようとしなければ、理解は進まない。

 

先生の世界観に近づいて、できるだけギャップを最小限にとどめようとする努力が、生徒には必要だ。

 

「教わる」ということは、本当に奥が深いなぁ…と一瞬思ったけど、

そんなことない。実はとてもシンプルだ。

 

「ほら、アレ!」と指さされたら、

「どれどれ?」と、自分も見えるとこまで行って同じところから見ようとするのと一緒だもん。

そんなのいつも自然にやってるのに。

 

同じとこからは見られなくても、

見えるとこまで行こうとするくらいはしないとね。