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ヨガと、私が考えてること。何年かに一度インドに行きたくなります。

知ること

信じることや、信仰することを超えて、

最終的には真実を「知ること」。

 

私は、「知ること」は最も気高いと思う。

 

しかし世の中、

どこでどうやって知ればいいのかはあまり教えてはくれず、

 

道に迷う人がなんとも多い。

 

そこで、それぞれのスピリチュアリストたちが自説を唱え、

瞑想によって真の自分と繋がれ、大いなる存在と繋がれ、などと言う。

 

そこには実際、かなり大きな経済圏があるはずだ。

 

でも残念ながら、彼らが語る着地点はどこまでいっても「体験」の範囲に留まる。

 

 

「知ること」の手段は体験でしか得られないなどと、誰が証明したのだろうか。

 

 

私はヴェーダンタに出会って、

言葉によって「知る」ということを教わった。

先生が生徒に言葉を通して教え、「知る」。

という、とてもシンプルな方法。

 

 

言葉は、物事を区別するものだから、たった一つの真実を言葉で語ることはできない。という意見はもっともだけれど…

 

もし、

相対的な全てのもの(つまり、言葉で説明できること)を言葉で語り尽くしたとき、

最後にたった一つ残ったものを、「真実」と言うことはできないだろうか。

 

私もはじめは、言葉で説明できないものをどうやって言葉で知るのだろうか、と疑っていた。

 

先生は、ヴェーダンタには伝統的な方法で、特殊な言葉の使い方をすることで、真実を伝えることができると教わっているけれど、どんな方法かわからないから、わかるまでは「信じる」しかないなぁ…なんて思ってた。

 

でも、はじめに言ったように、

消去法でひとつずつ真実でないものを消していけば、最後に残ったものが、必然的に「真実」として現れるんじゃないかと、今、閃いた。

 

そして、その真実にたどり着くまでが、「体験」の重要性なのではないかと思うのだけど。

 

どうだろう。先生に質問するに値することだろうか。

 

…一度復習してからにしよう。

きっとどこかで聞き逃しているはず。