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ヨガと、私が考えてること。何年かに一度インドに行きたくなります。

自分の軸

よく、生徒さんからレッスンの後に「軸がないからグラグラするんですよね?」などと、「軸」というワードを使って質問されることがある。

 

そうすると私は、内心ビクッとして、

…軸って、私、よく分からん。

と思っているので、

「あー…うん、そうかもしれないね。」などと、言ってしまう。

 

軸を感じてアーサナ出来る人はすごいと思う。

私は、全然よくわからなくて。

 

どこの、どんな感じが軸なのだろう…

それは、みんなが同じ感覚なのだろうか…などと、謎が深まるばかり。

 

人生においても、

「自分軸からブレると…」などと言う人がいる。

こっちはなんとなく感覚的にわかるので、

他の言葉に置き換えてみたら、何が一番フィットするかなぁ…と考えてみた。

 

 

きっとそれは、

「優先順位」

じゃないだろうか。

 

人生の優先順位がつけられない人って、

いつもフラフラしている。

いつもあれこれ試して、あんな体験、こんな体験、と、時間やお金や体力など、大量のエネルギーを消耗している。

 

それに引き換え、優先順位がはっきりしている人は、

 

たとえばそれが子育てだとすると、

子育てのためなら、仕事を何回クビになっても、友達と遊びに行かなくても、ブランドの服が着られなくても、なんてことない。子供が最優先だから。

 

 

たとえばそれが仕事ならば、

スキルを上げたり、成果をあげるためなら、旅行しなくても、飲みにいかなくても、(または飲みたくなくても飲む)、休みがなくても、へっちゃら。

 

(これがまた、「やらされてる」と思ってやると、しっちゃかめっちゃかになっちゃうんだけど)

 

だからこれをアーサナに重ね合わせてみたら、軸ってものがわかるかもしれない。

 

優先順位…。

 

つまり、体の正しい使い方(秩序)に基づいてやればいいってことだ。

 

軸がないからブレるんじゃなくて、

軸を身につけてる最中だからブレるんじゃないだろうか。

 

身についたらブレなくなる。

 

軸がないからグラグラする、というよりは、

軸を身につけてる最中だからグラグラする、という感じかもしれない。

 

私もいつもグラグラしてるけど。

 

でもこれがわかったら、

優先順位をはっきりさせるのが、まずはじめにやることだねー。

瞑想と洗濯

瞑想は、人によって指す内容が違うので、

ここでは、

目を閉じてしばらく座るのを瞑想として、「洗濯」にたとえてみる。

 

シャツを心、洗濯を瞑想とすると、

 

たくさんの雑多な思考で泥だらけになった心(シャツ)を日々瞑想(洗濯)してキレイにしている。ということになる。

 

毎日汚して、洗濯(瞑想)して気持ちよくなる。

 

毎日、毎日、繰り返す。

洗濯しては、汚れて、また洗濯して…

 

 

私はこれが非効率で仕方ないと思っている。

 

どうして汚さない方法を考えないのだろうか、と。

 

たとえば、泥だらけになりそうなときはシャツを脱ぐ、とか。(心でいえば、感情的にならない、ということ。)

 

汚れが軽ければ洗濯も楽だし、ネットに入れて優しく洗っても汚れが落ちる。シャツも長持ちする。

 

 

つまり、頭を使うのはまさにその時で、

 

瞑想することが到達地点ではないことに気付くことだ。

 

 

何が問題かというと、

洗濯しなければならない状況を自らつくっていることに気付いてない、ということだ。

 

 

いくら丈夫なシャツでも、毎日毎日泥だらけにしていたら、ゴシゴシ洗ったり、漂白剤を使ったりして、繊維が傷む。色も褪せて、すり減ってしまう。

 

 

 

成長するというのは、

座って瞑想しなくても心が保てることだと思う。

 

 

いつでもシャツに気を配って、

ケチャップなんかつけないように、ナポリタンを食べる時は着替えたりするのだ。

 

黙っとく、という選択

一見、とても常識的で、礼儀正しくて、人当たりも良く、清く正しく生きていそうな人が、驚くような裏切り方をすることがある。

 

かと思うと、

 

挨拶もしないし、笑わない、話しかけてもあまり反応してくれないような、気難しそうな人が、長い間誠実に付き合ってくれたりすることもある。

 

 

振る舞いや口先でごまかされるな、

と私は時々自分に言い聞かせている。

 

 

 

と、同時に、

自分はどうなんだろう。

私の言葉には不誠実さがないだろうかと、不安にもなる。

 

 

それは、悪気はなく、むしろ、何か話さなきゃ、などと思っているときに多く出る。

 

 

いつも、

なんであんな話したんだろう、

あんな言い方してしまった、

聞かれてもいないのにいろいろ話したりして。

と後悔する。

 

今でもよくある。

 

その場しのぎが一番キケンだ。

 

 

じゃあ、もう喋らない!ってのは、

あまりにも子供すぎるけど、

 

そこで黙っとく。っていうふうにしたい。

 

本当は、「話さない」ってこと、

ものすごく大切なことかもしれないと、

思う今日この頃。

 

英会話のこと

みちか先生のオンラインクラスのおかげで、英語のテキストがだんだん理解できるようになってきたけど、

英語で人が話す言葉を聞き取ったり、会話をするのは全然できない。

そのクラスが今週いっぱいでしばらくお休みになる、という話を知り合いにしたら、

 

「じゃあ、お休みの間に英会話でもならわなきゃね(^^)」

 

と、冗談交じりに言われた。

 

 

そこで、考えたのだけど、

 

英語にしても、その他の言語にしても、

会話するというのは、

「人と何かについて話す」ことなわけだから、

 

どんな人と何について話したいのか、という目的がないと、

勉強してもつまんないだろうな…と思った。

 

旅行用なのか、ビジネス用なのか、

そこに住むなら「住民票はどうやってとるの」とかの日常用とか、

留学するなら「早退するときはどうすればいいの」とかの学問用とか、など、

 

一口に話したいと言っても、話したい内容は人それぞれだ。

 

 

たとえば、

私が英語で行われるヴェーダンタの授業が聞き取れるように勉強をしようとしたら、それを教えてくれる英語の先生なんているのだろうか。

 

ヴェーダンタの授業では、こんな言い回しをよくしますよ、とか、

たとえを話すときはこういう話がよく出てきますよ、とか、

こんな語彙が頻繁に使われるとか、

 

…そんなの知ってる先生だったら、その人がもうヴェーダンタの先生じゃないか、と思う。

 

そんなわけで、私は英会話は勉強しないけど、

 

今までのクラスの音声を聞き直してしっかり復習し、

「わかりやすいサンスクリット語の…」というみちか先生の本でサンスクリット語を自習して、次のクラスに備える予定。

 

学ぶって、

何のためにそれをするのかはっきりわかればおもしろくてやめられないけど、

それもわからないまま、良さそうだからとか、できないと不安だからとかの理由でやっても続かない人がほとんどだ。

 

資格も、1個も無くても実力発揮してる人もいるし、100個持ってても全然生かせない人もいる。

昔、篠原涼子がやってたハケンのなんとか…ってドラマみたいに、持ってる資格を次々と生かせるならいいけどね。

あれはドラマだからな。

 

私は、英語を上達させるつもりはなかったのに、ギーターのクラスのおかげで少し上達した。

 

目的があってこその道具だな、と思う。

 

 

そして、何かを教える立場にいる人は生徒に対してまず、

「その目的をはっきり示してあげる」

というのがすごく大事。とも思う。

 

学生のとき、わかってたらなぁ〜。なんて、つい思ってしまう私。

あと何十年かだし

お母さんのグチを聞いているうちに、なぜか私に対して怒り出したので、

そんなに一体何に怒っているのか、と聞いたら、

私が同調して一緒に悪口を言わないからだと言う。笑

 

思ってもいない悪口を言えないでしょ、と返したら、「ご立派ですね」とのこと。

 

いつまでグチり続けるのだろう、この人は。と思ったけど、

 

急に、

 

あと何十年かだし。

 

と思いついて、明るい気持ちになった。

 

 

この前、銀色夏生のつれづれ、15かな?21かな?または11かも…

 

のどこかに書いてあったんだけど、

 

もし死んでるのが普通だとしたら、この世界で生きてる何十年かはすごく貴重だ。と。

 

 

そう思ったら、

ムカつくこと、悲しいこと、辛いこと、

そんなことですらありがたい。

 

だって、あと何十年かしかないんだから。

 

 

与えるから与えられるとは

今までに、

「与えて欲しかったらまずは自分から与えなさい」

という言葉を聞いたこと、ある?

 

あ、聖書とかにもある?

与えよ、さらば与えられん、だっけ?

 

 

今まで、私はそれって、

「欲張ってばっかいないで、たまには自分から与えなさいよ」みたいな格言だと思ってたんだけど、

 

 

でも最近、それってちょっと違うかも、と思って。

 

 

それは、

「自分のやりたいことより、周りに求められることをするのがその人の使命だ」

と教わってから、

 

私に今求められていることってなんだろう、これとか、あれとか…って考えてやるようになったわけ。

 

 

そうしたら、役に立つもんだから、だんだん周りに必要とされるんだよね。

 

 

つまり「与えられる」っていうのは、自分の役割や居場所を与えられるようになる、ってことなんじゃないかと思うんだ。

 

引き換えにお金などをもらうのも便利だし、嬉しいけど、信頼から得る居場所や役割は、それを上回る喜びや安心感があるなあ…と私は感じてる。

 

 

それはほんの少しのこと。

 

黙って一緒にいてあげるとか、

ちょっと留守番してあげるとか、

一緒に行ってあげるとか、

寒いときに窓を閉めてあげるとか。

 

そんなささやかなこと。

 

「そう?あなたが必要だっていうならそうしてあげるか。」って感じでも全然いい。

 

全然大したことじゃないけど、周りが喜んでくれることって結構いっぱいあるんだよね。

 

そんな風にしてるうちに、周りが「いてほしい」と思うようになるのかもしれない。

本人は正直、「ちょっとめんどくさいな」とか思ってるかもしれないけど、そんなのもまずはそれでいい。

 

仕事してても、クビになっちゃったらどうしようとか、つぶれちゃったらどうしようとか、不安な人って、もしかするとその種の「貢献」をしてないのかもしれない。

 

その、「ちょっとした」貢献。

自分がしたいことではなく、周りに求められていること。

 

周りに必要とされてたら、クビになっても誰かに拾われるし、つぶれたりも滅多にしないはずなんだよね。

必要なときはそういうことも起きるだろうけど…。

 

そういう不安から、お金しか信用できなくて、万が一の時のためにお金をいっぱいためておかなきゃとか、早く大金を稼げるようにならなきゃとか、そっちの方向に進んでいく人も大勢いるみたいだけど、

 

本当にそうなのかなぁ…。

 

 

私はみちか先生から、

「ちょっと損したなと思っても、後悔しないのがダルマですよ」と教わった。

 

この世界にいる限り、

与え、与えられることを避けては通れない。

 

だから正しく理解して、素直に達成したいと私は思ってるんだよね。