su-haku

ヨガと、私が考えてること。何年かに一度インドに行きたくなります。

それ、知ってる

前に、「それ知ってる、と思った途端、新しい知識は入ってこなくなる」と言ってた人がいた。「だからいつも新しい気持ちで」と。

 

でも、どうやって新しい気持ちになったらいいんだろ…と思ってたら、

その人は「意識的に記憶を消す」とか言っていた。

でも、それもどうやるのかわからないから、なるべく注意深く人の話など聴くように心がけていたのだけれど、

 

つい最近、ギーターのクラスを受けていて、何か今までと違う感じがした。

 

先生のお話が頭に入ってこない。

 

とても失礼な言い方になって申し訳ないけれど、気付いたら、「いつも同じことをおっしゃっている」ようにしか聞こえなくなっていた。

 

つまり、それって、

「それ知ってる」ってのと同じこと?と、ちょっと焦った。

 

その向こう側にもっと理解すべき何かがあるような気はするのに、糸口が見つからない。

 

原因が自分自身にあるのは確かなので、よーく考えてみた。

 

それで、これかな、と思うことが一個ある。

 

私は、サンスクリット語を敬遠してきた。とても難しそうだし、英語のテキストを予習するだけでも大変なのに、サンスクリット語なんてとても無理。と決めつけて「今はできるとこまで」と少しサボっていた。

でももし、サンスクリット語を遠ざけていることが原因で先生のお話が理解できないとしたら、「今できるとこまで」はもうここで終わりだ。

 

それで、アマゾンの「あとで買う」リストにずーーっと入っていたみちか先生のサンスクリット語の本をやっと買った。

 

昨日届いて、少しずつ、じっくり読んでいる。

 

発音も大事なんだって。

 

確かに、「タ」を言う時、どこから声を出してるんだろ…と思うことが時々あった。

日本語にはない音が結構あって、おもしろい。

 

そこで思ったこと。

 

私は、自分の今までの経験の中だけで物事を理解しようとしていたのに限界が来たのだろう。

 

私の知らないことをたくさん経験し、考えてきた人たちが言うことを、一体どうやって自分の経験の中だけで理解できるというのだろうか。

 

でも、多くの人はそうやっている。

「ああ、わかるわかる」と気軽に言う。

それぞれが自己流でわかった気になってるだけなんだ。

 

私も。

 

サンスクリット語は難しいかどうかまだわからないけど、先生の本を少し読んだだけでも、サンスクリット語について知らないことがたくさんあったことには気付けた。

 

「それ、知ってる」と、

本当に知ってるときももちろんあるだろうけど、

一回ずつ、ちゃんと立ち止まって、丁寧に接していきたい今日の私。

 

 

原因の追究と対策

ヨガをしなかったのが原因で、

太ったり、不眠症になったり、股関節や膝が痛くなったなら、ヨガをすれば治るかもしれないけど、

 

なんで太ったのか、なんで不眠症になったのか、なんで体が痛くなったのか、

 

大抵の場合、原因はヨガにはない。

 

 

原因はその人の心の在り方にある、と私は思っている。

 

その人の心の在り方、考え方が、

その人の言葉をつくり、

その人の行動をつくり、

体のクセをつくる。

 

それは、

意識的にコントロールできないことの方が多いと思うし、別に否定する対象でもないと思うけど、

 

ヨガをしたから良くなったとか、

ヨガをしてるのに良くならないとかいうのは、

なにかピントがズレているような気がしてならない。

 

お風呂掃除は嫌いだけど、お洗濯なら好きだからお洗濯を一生懸命やるね!と洗濯をいくらしても、お風呂を掃除しない限りお風呂はきれいにならない。

 

それと同じで、

食べて太ったなら、食事によって、

長年の習慣によって体調を崩したなら、生活習慣によって、

考え方によってひねくれてしまったなら、心の在り方を変えることで、

修正していくしかない。

 

ヨガをして一時的に良くなったような気がしても、それは頭が痛いときに頭痛薬を飲むのと同じだ。

 

練習を続けていく中で、その向こうにあるもっと大きな原因に気付けたら、ヨガも役に立つと思う。

 

 

 

 

諦めも肝心。

どうせ、と言ってはなんだけど、

 

他人は、その人が理解したいようにしか理解しないのだから、

 

こんな風に思われたい、と一生懸命自分を演出しても、

私はあまり意味がないように思う。

 

誰にどんな風に思われれば満足するのか、満足してどうしたいのか、なんで人の評価で満足しなければならないのか…

どうして考えないのだろう。

そこまで苦しんでいるのに。

 

誰になんて思われてもいいなんていう言い方はちょっと投げやりだと思うけど、

 

どんな風に思われようと、自分はそれをコントロールすることはできないのだから、諦めも肝心、って思うわけ。

私って、とても楽に生きているんだな、って思う。

 

私の両親は健在。妹も元気。姪も二人いてかわいい。妹の旦那さんは優しくてちゃんと働いて妹たちを完璧に養ってくれてる。

 

親に怯えたり、愛情不足な子供時代ではなく、親だけでなく二人の叔母にものすごく可愛がってもらった記憶もある。

祖父母は孫がいっぱいいたからまあまあ。それなり。

そして両親は私を最後まで育て上げてくれた。

 

本当に私は楽に生きているんだと、

すごく思うのだ。

 

 

それなのに、それが当たり前すぎて、

子供の頃なんて「私なんか誰からも可愛がられてない」なんていじけていた。

 

本気で思っていた。

 

今思えば、あんなに楽してたのに。

ちゃんと可愛いがられてたのに。

 

私の周りでは、私の子供時代とは真逆のような話をよく聞く。

 

胸が痛くなるようだけど、

陰ながら応援してるだけ。

 

それと、私と真逆の境遇でも、全然いじけない人もいるかもしれないよね、とも思う。

 

私が勝手に、その子をかわいそうだと決めつけることは、傲慢だと思う。

 

他者を尊重するって、本当に難しい。

これからヴェーダンタはそれを教えてくれるだろうか。

 

…とにかく、私はこうして楽に生きていられるのだから、お仕事頑張ろう。

 

自分の役目を果たすことをまずしなければ。

 

少しでも、誰かの人生と健康に貢献できますように。

 

そして、子供たちがどうか世界を嫌いにならず、穏やかに人と関わることが喜びだと思う人生を送れますように。

損得

この前コーヒースタンドでMサイズを頼んでお金を払ったあと、

出てきたコーヒーを受け取った。

 

なんかいつもよりちっちゃいなぁ…?

と思ったけど、気のせいかもしれないと思って、車にもどってホルダーにカップを置いたら、やっぱり小さかった。

 

あーあ、50円損しちゃったなー。

なんて、店員さんに言いにいくのも面倒だったので、そのまま飲んでしまったけど、

意外とSサイズも大きかったので、

これからはこれでもいいかな、と思う。

 

そうすると、これから私は50円安く満足を手に入れられることになるけど、

果たしてこの間違いは損なのか、得なのか…

よくわからない。

ずーっと前の私のブログに、夢について書いているものがあった。

 

アーユルヴェーダでは、夢は単に乱れたドーシャを整えるために見るものである、とのこと。

 

そんなことすっかり忘れていて、なんでこんなに夢見が悪いんだろう…と先週くらいまでゲッソリしていたのだけれど、

 

ドーシャの乱れか。

 

乱れるわな、こんな気候では。

 

心的プレッシャーもドーシャを乱すね。

 

季節外れの寒さも。

布団乾燥機でフカフカにして、湯たんぽも入れて、あったかくね。

 

最近、おかげでよく眠れます。

アンインストールして再インストール

前に、会計ソフトの「やよい」を買って、どうにもこうにも行き詰まったときヘルプデスクに助けを求めたら、

アンインストールして再インストールしてみましょうと言われた。

それで問題は解決した。

 

そのことはしばらく忘れていて、

この前パソコンを開いたら、いきなり日本語入力ができなくなってしまった。

いろいろやってみてもダメで、しばらく放置したら直るかな…と思い、一週間程放置してみたけど直らなかった。

 

どーしよーかなー。なんでかなー。とネットでいろいろ検索してみたら、出てきた。

「アンインストールして再インストールしてみましょう」

また解決した。

 

私の中で、解決手段のメインになりつつある。

 

パソコン以外にも応用できそうな気もする。

 

アンインストールして、再インストール。