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ヨガと、私が考えてること。何年かに一度インドに行きたくなります。

感動について

だいぶ前に会った人が、

何を見ても感動しないとこぼしていたのを思い出した。

 

私は最近感動しているだろうか。

と、ふと思う。

 

少し考えてみて思ったのは、

 

「感動」を何と定義するかによって、答えが変わってしまう、ということ。

 

漢字を分解すれば、「感動」は感情を動かされる…だろうか。

 

それなら、いつもだ。

 

ただ、多分一般的に言われる感動とは、もっと特別に感情を揺さぶられることを意味しているように思う。

 

私は、いつも感情的にならないように気をつけている。

それには私にとって大切な理由がある。

 

だから、感情が動いたことは自分でもわかるけど、それ以上に振り幅を大きくすることはしない。

 

それじゃあ、人生つまらないじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、

 

両方やってみて、生きやすいのは圧倒的に感情的にならない方。

 

感情を大事にしていた頃は、急上昇と急降下の繰り返しで無駄に疲弊していた。

 

今は、嬉しいときは静かにワクワクしたり、悲しいときは冷静に受け止めたりしている。

それでも幸せを感じる機会は今の方が絶対的に多い。

 

喜びと幸せは別物だということが、はっきりわかった。

 

まとめると、感動をどう定義するか、人と語り合う前に確認すること。

そして、俗にいう「感動」には反動も付きものであるから、結局のところ相殺するとプラマイゼロ。といえる。

むしろ、感情の振り幅が大きい程エネルギーを消費するので、だんだんと歳をとってきたら、むやみに感動するのは控えるのが、個人的にはオススメかな。

今は考えなくていい

連日テレビで流れてる白血病の水泳選手の女の子に、オーストラリアの水泳選手の男性が語りかけていた言葉が印象的だった。

 

「今はこの先も水泳を続けられるかどうかは考えなくていいと思います。」

 

 

結局、自分ができることは今目の前にあることだけだ。

 

それは、どんなに平凡な人でも、才能がある人でも、若くても、年寄りでも。

 

 

未来をあれこれ心配しても結果をコントロールすることはできない。

 

結果は、

「今どのように取り組んだか」「今できることにどれくらい集中したか」に導かれる。

 

 

防ぎようのない病気やケガですら、いつかの自分がしたことの結果だと、ヴェーダンタで教えられた。

 

幸せでいなくちゃと焦る私たちは、良い行いを重ねる代わりに、悪いことが起こらないように…とつい願ってしまうけど、

 

どうしたって自分の手の内にはないこともある。

 

 

それでいいのだ。

 

そういう風にできているのだから。

 

 

悲しんでもいいし、悔しがってもいい。

諦めたっていいと思う。

 

そういう感情は、前向きにがんばる気持ちとも同等なのだから、特別忌み嫌わなくてもいい。ちゃんと味わい切ってから前を見ても遅くない。

 

誰にとっても、当てはまること。

 

「今は考えなくてもいい」

 

目の前にある私ができること、

私の成長のためにできることに、

最善を尽くしたい。

混じり合う色

「自分を貫く」というのは、

そんなに大切なことだろうか。

 

青と赤が混ざると紫になるように、

 

自分と他人が関わればお互い少しずつ変化するのが自然なのではないだろうか。

 

全員平等、公平…

これらは、場の秩序を保つためにとても便利な概念だ。

 

しかし、単純に人と人とが関わる場合は、これにとらわれる必要はないのではないかと、この頃思う。

 

好き嫌いの感情が優先し、自分に都合良く態度を変えるのは未熟だと思うけど、

 

相手が変われば自分も変わることは、そんなにおかしなこととは思えない。

 

自分を貫く必要は、本当にあるのだろうか。

その理由

私は、子供を産みたいと思ったことがない。

 

それでふと、なぜ子供を産みたいと思わないのかなぁ…と考えたとき、

 

私は子供時代が楽しくなかったからかもなぁ。と思った。

 

やっぱりどう考えても、私の子供時代は全然楽しくなかったな。

 

楽しくなかったことばかり覚えてる、ともいえる。

 

自分が持つ印象の問題だ。

 

 

それは私自身の問題だから、親のせいとか、学校のせいとかにするつもりもないけど、

 

やっぱりおもしろくはなかった。

 

早く、早く、あの世界から解放されたかった。いつもそう思ってた。

 

そんな私が子供を産んだところで、どうすればいいかのかわからない。

またあの世界に戻って子供付きでやり直すなんて、気が遠くなりそう。

 

本当にそう思っている。

 

だからかもなぁ。

 

私は今が一番生きやすいよ。

 

それはそれでね。いいと思ってる。

 

 

ハジモラを。

武田鉄矢のラジオで、

「お腹がグ〜っとなってから、食べるのがいい」と言うので、お腹ぺこぺこだけど、今ガマンしてる。

 

そんな時には、これ。

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インドの…なんだろ。これは。

 

ハジモラ。

 

消化を助けるスパイスがいろいろ入っている、アーユルヴェーダのお薬というか、おやつ。ラムネ?

 

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こんな感じで。

 

不思議な味で、気に入ってる。

 

しいて言えば、うめぼしコショウって感じ。

赤い瓶は、ザクロ味らしい。

他に紫とかオレンジとか緑とか、いろいろある。

 

これね、あるの忘れてて賞味期限切れてるけど。私あんまり気にしないから食べてんだ。

 

早く夕ごはん食べたい。

今夜はきりたんぽ鍋だってサ。

自負と経験の価値

長く続けてきた、

 

ということが邪魔をしていることって、あるなぁ。と思う。

 

自負、というのか。

 

私は何をやっても長続きしなかったので、何年も続けてきたことって最長でも10年にも満たない。

 

でもこの歳になり、少しずつ経験も増え、だんだんと続ける大切さに気付いたり、周りには歳下の人も増えてきて、少しキケン。

 

気をつけようと思う。今からすぐに。

経験が財産だなんて、思わないこと。

 

経験が生きるのは、意識してないところでその技術が出たときだと思う。

 

そこに留めておきたい。

嫌いな人への奉仕

私が最近気付いていることといえば、

 

例えば、

「あの人が嫌い」と思ったとしても、本当はその人が嫌いなのではなく、

その人のやっている「何か」が嫌いなだけだということ。

 

「嫌だ」と思う振る舞いをやめたら、私はその人を嫌いでもなんでもなくなること。

 

たまに、顔が嫌いとか、生理的に受け付けないとか言う人もいるけど、

それは分析が足りず、嫌う方が自分の感情に翻弄されているのだ。

顔つきというのはその人の心の状態でだいぶ変わってしまうし、見た目だけで嫌がるのは嫌う側の問題だ。

 

 

それで、私はそのことがわかってきてからどうしているかというと、

 

嫌だと思うところより、相手のバックグラウンドを想像しながらどうしたら相手が人生を謳歌する方向に向かえるかを考える。

 

嫌いな相手がどうすれば幸せを感じて生きていけるか、最大限の手助けと努力をする。

 

 

私がバカなときは、嫌いな人に奉仕するのはとても悔しいことだった。

 

でも今は、嫌いな人が幸せを感じやすくすることで、その人の行動が変わり、私が「嫌だ」と思っている行動を自然とやめることがわかってきたので、その方が得だと思えるようになってきた。

 

そのためなら少しくらい損してもいいと思っている。

 

嫌いな人への奉仕。

 

ただ、どんな奉仕をするか、というのがとても難しく、おもしろい。

 

そのためにはまず、私自身が「幸せとは何か」ということを学び知る必要があるわけだけど。

 

私にとってそれはまるでゲームのよう。

人生を賭けた真剣勝負で、テレビゲームなんかよりずっとおもしろくやりがいがあると思う。目も疲れないし。