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ヨガと、私が考えてること。何年かに一度インドに行きたくなります。

本来の在り方

スピリチュアル界でよく出てくるワードに、「ありのままの自分」というのがある。

 

これは、本当に気持ち悪い。

 

私流に言い換えると「本来の在り方」が一番しっくりくる。

 

ありのままの自分、とかいうと、自分の「理想」とか「憧れ」とか「好きな」になってしまいがち。

もっというと、「逃げ込める状態」ならなんでもいいという場合も。

 

自分の好き嫌いに関わらず、「本来の在り方」「本来あるべき姿」というものを探ることが、結局は居心地の良い心と体の状態に近づく良い方法だと思う。

 

私は、ヨガをするのは体のラインをキレイにするためではない。

健康になるためでもない。

 

ただ、

本来の使い方をした場合、どんな体になっていくのかに興味があるのだ。

本来人間がすべき食事をしたらどうなるのか。

本来人間がすべきライフスタイルを送ったらどうなるのか。

 

私の「本来のあるべき心と体の状態」はどんななのかを、客観的に見てみたいのだ。

 

だから、好き嫌いは入れたくない。

感情で物事を判断したくない。

 

私の使う心と体は、私のものというよりは、私に手入れを託された「預かりもの」という気がするから。

 

人間の本来の在り方に、近づいていきたい。

自分の秩序を宇宙の秩序に沿わせる

みんなそれぞれ「自分ルール」というのを持っていると思う。

 

それは、それぞれの人が、これまでの経験に基づいて、より自分が生きやすい環境を守るために編み出した策だ。

 

でも、それを執行しても、別の生きにくさ、葛藤、モヤモヤが生まれることがある。

 

それは何かというと、宇宙の秩序とズレているということだと、私は思う。

 

「生きやすい」=「宇宙の秩序に沿っている」

 

だけれど、それに気づかないうちは、仕方ないから自分で一生懸命考えて、ルールを作るしかない。

 

偶然、宇宙の秩序に沿うものもあるし、

やはりズレてしまうものもある。

 

私にはまだわからないことがいっぱいあるのだけど、

でも以前よりうんと生きやすくなった。

 

それでも、「こんな時はどうすべきか…」と迷うことがよくある。

 

そういう時は、ギリギリまで考えて、それでもわからなかったら、その時最善だと思うことをそっとやってみる。

 

そして、

ちょっと違うか、と思ったら微調整することを繰り返す。

 

そのうち、誰かが教えてくれたり、何かのきっかけで知ることもよくあるけど。

 

「その時最善」の基準は、

誰の何の役に立つのかをよく考えることだ。そして、自分が精神的に成長できるかどうか。

 

私が褒められたくてとか、

冷たいと思われたくなくてとか、

自分の利益は優先しない。

 

嫌でもやらなきゃならないならやるし、

やりたくても何の役にも立たないならやらない。

たとえできる能力があっても他者を傷つける行為はしない。

 

難しいけど。

努力する価値はある。

その努力の中に成長の粒がぎっしり詰まっているから。

 

自分のルールには限界があるから。

宇宙のルールに沿った方がすごくいい。

情報はもってるけど理解してません

頭ではわかってるけどできない。

 

というのは語弊がある。

 

本来なら、

 

聞いたこと(見たこと)はあるけど、理解してない。

 

というべきだ。

 

わかってるならやればいいのに、できないのなら、やっぱりわかってないのだと思う。

 

 

なぜ私がそう思うのかというと、

 

今日ピラティスの練習で、今までできなかったことがちょっとできるようになった。

 

よくヨガなんかやってても、耐久性がないと「鍛えなきゃ」とか言う人が結構いるけど、私はそれは違うと思っている。

正しく言うなら、「どこに意識を向けるべきか、どう動かせばいいかを知らなきゃ」だ。

 

今日私がちょっとだけできるようになったのは、腹直筋の下部を寄せる動きだ。

 

それを意識したのは2週間前だったのだけど、それから事あるごとに、筋繊維をイメージしながら恥骨をおへその方向に近づける練習を続けた。

うまくできると、腰の辺りが伸びてビリビリする。

 

それで今日、練習の中でそれができた。

 

それはもちろん、鍛えたわけではない。

ただ、正確な場所に意識を向けて、正確に動かそうとしただけだ。

 

先生も「今日、できてたね!」と言ってくれたので、ホントにできてたのだと思う。

 

その経験に基づいて言うのだけど、

 

実は、「恥骨をおへそに寄せる」って、私はヨガの先生にもう何年も言われ続けている。

 

だから、なんら目新しいことではない。

もちろん、寄せていたつもりだったけど、(つまり、頭ではわかっていたけど)

実際にはできてなかった。

 

頭でわかっているからと言って、できるわけではないのだ。

 

だから、「わかってはいない」のだ。

「わかっている」というのは、「理解している」ということだから。

 

「その情報は持ってるけど、まだ理解できてないです」

というのが、適切な言い方だと思う。

 

そんなコンマイこと、どーでもいいよ。

 

という声が聞こえてきそうだけど、

どーでもよくないのだ。

 

そういう些細な言葉の1つひとつを識別しないために、頭が混乱するのだから。

 

そして誤解が増えて、外の世界との食い違いが大きくなっていくのだから。

 

それは自分自身が生きにくくなるだけなのに。全部自分に返ってきてるのに。

 

みちか先生が前におっしゃってた。

「知るということを軽く見過ぎている」と。

 

もちろん私を含め、ホントだなぁ…と思う。

 

ふぅ〜。

 

今日はヴィーガン麻婆豆腐。

ラジャスですが、私、社会人だし、いいだろう。

だんだんに、また変わっていくだろう。

 

そうそう、

腹直筋下部の意識は、午後の太極拳まで持ち越したら、先生に褒められた。

 

だから、きっと、ホントにできてたんだろう。

ルーズな人

ルーズな人というのは、

 

日常のいろんな場面でルーズなんだな…と思ったことがあった。

 

私が思うに、ルールがないのだと思う。

 

それは別の視点から見ると、

囚われてなくて、自由な感じがするけど、

 

もっと適切な言い方をすれば、秩序がないわけだから、

 

そのせいで人を不快な気分にさせたり、

人の信頼を失ったりしている。

 

本人は気付かずに、普通に誠実にしているつもりだから、謝るしかなくて、

 

なんだかよくわからないけど怒られたとか、

なんだかよくわからないけど怒らせてしまった、

とかいうことがよく起こっているんだろうな…。

 

ルールがある、ということを知らないがゆえに、

「こんなもんかな」と、曖昧に処理しているからそういうことになる。

 

それでも生きてはいけるけど、

結局は、自分にとって不都合なことが起こりやすくなって、障害が増えるのだから、知った方が「得」って感じはする。

 

そういうことを知る機会が、この先あるといいよねぇ。

自分がすべきこと、できること。

世の中の問題を探し始まったらキリがない。

 

次から次へと問題は起き、複雑に絡み合って、思考が止まってしまう。

 

誰のせい?行政?企業?

 

誰かのせいにするのは簡単。

でも、責任を押し付けあっても解決しない。

 

だいたい、問題の原因というのは、責任が取れない人が作るものだと私は思っている。

いつだって無責任な人が問題を起こすのだ。

 

それでも、私たちにはまだエネルギーがある。意志があって、行動を選択することができる。

 

だから、結局、一人ひとりなのだ。

 

一人ひとりが自分のすべきこと、できることをやらなければならない。

 

「いいこと」と「すべきこと」は違う。

 

「すべきこと」はその人にしかできないことなのだ。

 

「私がやらなかったら他にやる人いないのだからしょーがないでしょ、」と言いたくなるようなことが「すべきこと」なのだ。

 

そのことから逃げずにちゃんとやろう。

 

一人ひとり、その人にはすべきことがちゃんとあるのだから。

革製品

新しい靴とバッグを探していたら、

可愛いミネトンカのブーツを見かけた。

 

でも革製品だったので、それ以上は見なかった。

 

靴や財布、バッグ、車のシート、手帳カバー、ソファー…

 

いろんなところに動物の革が使われてるんだなー…。と、今まで全然気にしてなかったことに気がついた。

 

私たちが一時的な満足を得る、そのために、動物は産まれさせられ、殺される。

 

ダウンも同じだった。

羽交い締めにされて無理矢理羽をむしられていた。

 

羊も怖そうな男に床に叩きつけられて無理矢理毛を刈られていた。

 

みんな優しく扱ってなんてもらえてなかった。

 

確かに、あの大量のウール製品や、ダウン製品は、どこから来るのか考えたら、人間が無理矢理製造するしかないことくらいわかるのに。

 

全然気がつかなかった。

 

私はいじめてない。

私はやってない。

私は知らない。

だから私は悪くない。

 

そういう問題だろうか。

 

 

私は気づいてしまったから、次からはもう買わない。

 

今あるのは、大事に使う。

着るのには罪悪感が大きいけど、これも資源だと思うから。

長く、大事にしようと思う。